出典:barimavox.blogspot.jp
1920年代のアメリカのイラスト
このページにたどりついたあなたは相当なネクタイ好きである。
同時にファッションの歴史を知る大切さを心得ておられる方であろう。
ネクタイの歴史は紳士服飾史そのものとも言える。
起源・歴史・由来を知ると、あなたの装いには意味が付されるだろう。
自分流のスタイルを築く助けにもなるだろう。
ネクタイのマニアックな歴史を知りたいあなたのための記事。
ぜひとも最後までお付き合いいただきたい。
ネクタイの歴史 古代エジプトからローマ帝国まで
不思議なことに、古代より男はのどや首の周りを飾ることに関心があった。
とはいえ、ネクタイの起源と歴史の跡を正確にたどることは非常に困難である。
北南米大陸のインディアンたちも首飾りをしていたし、首元の装飾は古代から世界中で同時発生的に見られるからだ。
ここでは幾つか代表的な例を挙げよう。
紀元前1737年、古代エジプトの王、ファラオがヨセフに金の首飾りを与えた記録がある。
「そうしてファラオは認印指輪を自分の指から外してヨセフの指にはめ、ヨセフに上等の亜麻布の服を着せ、金の首飾りを掛けさせた。」(創世記41章42節)
ヨセフとはエジプトでファラオに次ぐ第二の支配者としての地位を与えられた人物である。
その際に、金の首飾りがファラオによって贈呈されたのである。
つまり、首飾りは権威の象徴であり、同時にファラオの信頼を得ている印でもあったわけだ。
出典:louvre.fr
古代エジプトの王パネジェム1世の首飾り(紀元前1096-664年)
さて、1974年に発見された中国の始皇帝(-紀元前220年)兵馬俑からは兵士たちが首に布を巻いている様子をうかがい知ることができる。
上の画像は重装歩兵の一人だ。地元の土産物屋では彼の模型が一番人気だそうだが、それはどうでもいい。
彼が首に巻く布にはどんな意味があるのか。
彼が兵士だからである。
首に巻いた布は軍の指揮下にある従属の者である証しなのだ。
首に巻く布は自分が何者であるか、だれに仕える者なのかを他者に知らせる代物なのだ。
ここに、わたしたちがネクタイを結ぶ第一義を見出すことができるのではないだろうか。
ネクタイは、自分がどんな人間かを他者に教える。
西洋においては、ローマ帝国トラヤヌス帝の時代にネクタイの起源を見ることができる。
兵士たちが故郷を遠く離れて北方国境守備に派遣される際に、妻や恋人たちが布を贈り、それを首に巻いたとされている。
現代でも男性へのプレゼントにネクタイを選ぶ女性は多い。
それはつまり、「あなたに首ったけ」という意味だ。
そして、男性は女性に対しての忠節を一枚の布によって表現するのだ。
兵士たちが布を首に巻いていた様子はトラヤヌス記念柱の中に見ることができる。
出典:nationalgeographic.com
ローマのトラヤヌス記念柱
以降のローマ帝国時代、兵士たちは防寒を兼ねて羊毛の布を首の回りに巻いた。
また、弁士たちもフォーカルと呼ばれる布をのどの保護のために巻いていたといわれている。
ネクタイの歴史 16世紀から17世紀まで
現代のネクタイの先駆けは16世紀後半のイングランドやフランスに登場した。
16世紀後半にイングランドやフランスでラフという襟型が登場したのだ。
ラフはあくまでも襟であり、ネクタイとは異なるが、首元の装飾という意味において重要なアイテムだ。
出典:nl.wikipedia.org
エリザベス女王の廷臣、サー・フィリップ・シドニー(1554-1586年)
すさまじい立体感である。
男性はダブレットと呼ばれる上着を着て、装飾のため首回りにラフを着けた。
厚さ十数センチのものもあったと考えられるラフは多くの場合、首の回りを囲む、大きな円盤状の襟だ。
ラフは白い布で作られており、形が崩れないよう支えられていた。
ネクタイを結ぶときの「立体感」というキーワードには歴史的な意味があるのだ。
17世紀にネクタイ史における重要な転換点が訪れる。
ヨーロッパで起きた30年戦争(1618年-1648年)の頃、クロアチアの兵士たちもこの悲劇に巻き込まれた。
クロアチアの軍装は、美しいスカーフを首に巻く伝統的なスタイルであった。
このクロアチア・スタイルが後にフランス国民を虜にする。
これにより、ネクタイは兵士や宮廷人のものから、一般庶民のアイテムへと変化していく。
出典:tourdalmatia.com
1600年代のクロアチア兵
三十年戦争の最中の1635年、傭兵としてクロアチアの兵士がフランスを訪れた。
そして、ファッションに敏感なフランスのルイ14世の目に留まったのだ。
ルイ14世が、クロアチア兵が首に色鮮やかな布を巻いていることに気づいた。
気になったルイ14世は側近に、「あれは何だ?」(首元のスカーフを見ながら)と尋ねた。
すると、側近はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いして、「クロアチア人(croate)です」と答えようとしたのだが、「クラバット(cravat)です」と答えてしまった。
ルイ14世は側近の二重の間違いに気づくことなく、「ああ、そうか、あの布はクラバットというのか」と納得してしまった。
かくして、フランスでは、クロアチア兵の色鮮やかな布は「クラバット」になったのである。
という説が有名だが・・・
14世紀にはすでにフランスで「cravate」という単語は使われていた、という説もある。
いずれにせよ、「クラバット」はフランスで新しいファッションとなった。
フランス語の「Cravate(ネクタイ)」の語源である。
出典:theatlantic.com
現代のクロアチア兵(クラバット記念式典)
出典:fr.wikipedia.org
ルイ14世の蝶ネクタイ姿
クラバットは、洗練・優美を表すものとして徐々に市民ファッションに採りいれられ、やがてヨーロッパ全域に伝わっていった。
さて、ネクタイの歴史の舞台をフランスからイングランドに移そう。
激動の時代に生まれたイングランドの国王チャールズ2世は、亡命を余儀なくされヨーロッパ中を移り住んだ。
当時すでにクラバットが流行していたフランスで9年間過ごしたのち、王政復古を実現するため1660年にチャールズ2世はロンドンに戻った。
そして、このチャールズ2世が行なった、ある宣言をきっかけにして、17世紀から18世紀にヨーロッパ中でクラバットという装飾品がさらに広まることとなる。
出典:en.wikipedia.org
チャールズ2世(1630年-1685年)
1666年、派手さを極めていた衣服を改めるため、チャールズ二世が「衣服改革宣言」を出したのである。
チャールズ2世、「余は、本日より衣服を改める」
この宣言をしたチャールズ2世は、建築家ヘンリー・ジャーミンに、宮廷用品を揃える街を開発するよう命令する。
その後、この通りは王族の庇護の元に発展してゆき、仕立屋、シャツ屋、帽子屋、靴屋、馬具屋、香水店、理髪店、ワイン専門店などが増えていった。
そして、その伝統は今でもジャーミン・ストリートに受け継がれている。
さて、「衣服改革宣言」は、シンプリシティこそが洗練さを生むという宣言であり、チャールズ2世は衣服を簡潔にすることを推奨した。
ウェストミンスター寺院にあるチャールズ2世の彫像を見ると、そのクラバットは長さ86センチ、幅15センチほどのものだったことが分かる。
「衣服改革宣言」の後、男性は上着とウエストコート、フリルのついた白シャツ、ブリーチーズ、そして、首の回りにはスカーフのようなネッククロス、もしくはクラバットを巻くというスタイルが定着した。
出典:royalcollection.org.uk
衣服改革宣言を出したチャールズ2世(右側)
クラバットは首の周りに2回以上巻き、端をシャツの胸部に垂らすのが定番スタイルだ。
17世紀後半の絵画が示しているように、当時、クラバットは大変人気なアイテムだった。
ネクタイ選びのキーワードの一つは「シンプリシティ」だ。
洗練された遊び方を知っている人間は、アニマル柄のネクタイなど決して結ばない。
クラバットは綿モスリンやローン製の無地のものが多かった。
レースでも作られたが、レース製のものは高価でありごく一部の人間のみが所有していた。例えば、イングランドのジェームズ2世(1633-1701年)は戴冠式用のクラバットのために36ポンド10シリング払ったと言われている。
出典:gentlemansgazette.com
ヴェネツィアン・レースのクラバットをしたジェームズ2世
1692年、英国軍はベルギーのスティンカークに駐屯していたフランス軍に奇襲をかけた。
しかし、フランスの将校たちはきちんと身支度をする時間がなかった。
それで将校たちはクラバットを無造作に首に巻きつけて軽く結び、クラバットの端を上着のボタンホールに通して戦った、と言われている。
フランス軍は勝利をおさめ、この時のクラバットの巻き方はスティンカーク巻きとしてその後50年ほど流行した。
出典:cravate-avenue.com
スティンカーク巻きのイラスト
ネクタイの歴史 18世紀からヴィクトリア朝時代まで
出典:ja.wikipedia.org
若き日のヨハン・セバスチャン・バッハ(1715年)
クラバットの結び方は多種多様であった。
場合によっては、クラバットを所定の位置に固定するため、シルクのリボンをクラバットの上に付けて、あごの下で大きな蝶結びを作った。この形のネッククロスはソリテールと呼ばれ、現在の蝶ネクタイに似ている。
下の画像のようにジャボと呼ばれるフリル付きの白いクラバットと黒いソリテールの合わせ技コーディネートもありだ。
出典:thefashionhistorian.com
フィリップ・コワペルの肖像(1732年)
1750年以降、古代ギリシアの彫刻が発掘されたことで、新古典主義ブームが訪れる。
古代ギリシアの英雄たちの肉体美を目指すように、男性服も変化していった。
大きく変わったのは、白い長ズボン(パンタルーン・トラウザーズ)とブーツである。
この時から、スーツは半ズボンではなく長ズボンが主流になっていった。 上着はカントリー・フロック(イングランドの田舎領主が着ていた服)がモチーフになり、前裾を切り落とし、後ろが長くされた。
フランス革命(1789年)後はカツラと半ズボンとストッキングが無くなった。
よりシンプルに。
長ズボンとブーツ。
元々、長ズボンは労働者の衣服と考えられていたが、フランス革命の際にサン・キュロット派(長ズボン派)が革命のシンボルとして政治的に利用し、その後のファッションにも影響を与えたのだ。
とはいえ、首元の装飾は衣服のスタイルが変わっても、政治が変わっても存続した。
ジャック=ルイ・ダヴィッドの自画像(1794年)
クラバットを結んで作る結び目の型は少なくとも100通りあったとされている。
紳士服のスタイルに多大の影響を及ぼしたボー・ブランメルは、1本のクラバットをきちんと結ぼうとして午前中の時間すべてを費やしたと言われている。
元祖ダンディズム、ボー・ブランメル流のスタイルはこうだ。
シャツには大きな襟を取りつける。
ネクタイには柔らかいモスリンの代わりに糊づけした布地を使う。
シャツの襟はほどよい大きさに折り曲げて、顎でネクタイを押さえつけてへこませる。
ネクタイは首の回りに高々と結び、首元に立体感をもたせる。
ブランメルのスタイルは決して派手ではなく、むしろ地味である。
華美な装飾よりも清潔さを重んじ、香水もつけなかった。
「街を歩いていて、人からあまりじろじろと見られているときは、君の服装は凝りすぎているのだ」 ボー・ブランメル
日本人は「ダンディズム」というものが好きらしい。どうも、粋な大人の男という意味合いとしてらしいが、英国で「ダンディ」という言葉は幾らか嘲笑の意味合いが込められている。間違っても英国紳士に「ダンディですね」と言ってはいけない。
ボーブランメルの肖像(1805年頃)
出典:wikipedia.org
ジョージ・クルックシャンクによるネクタイの結び方(1818年)
ヴィクトリア朝時代(1837-1901年)には、ファッション性の高かった摂政時代の反動から一転して、着心地の良いスーツに変化していく。
紳士の身だしなみはシンプルに。
ネクタイ、ステッキ、手袋などの小物で個性を表現するようになっていった。
ボー・ブランメル亡き後の時代のスタイル・リーダーはアルフレッド・ドルセー伯爵であろう。香水ブランドのパルファン・ドルセー・パリの創立者である。
ドルセー伯爵のスタイルによって今日の紳士服が形作られたといっても過言ではないだろう。
わたしは個人的にはブランメルよりもドルセー伯のスタイルの方が好みだ。
ブランメルは中流階級からの成り上がりで社交界のトップに立ったのに対して、ドルセー伯爵は正真正銘の貴族階級であった。
ブランメル流のクラバットは徹頭徹尾、白のモスリン地でしっかりと糊付けしたものだった。完成された形を崩さないことが彼のこだわりであった。
一方、ドルセー伯爵流は黒のサテン地やネイビー、シーグリーン、プリムローズイエローなど様々だ。そして胸元にソフトなゆとりと優雅さを添えるのがドルセー流だ。
ドルセー伯爵が身に着けた黒のサテン地クラバットや、ドルセーロールのシルクハット、ドルセーパンプス、ボタンをルーズに止めるジャケットと反り返ったラペルなどは、今日のタキシードスタイルの規範となっている。
出典:adclassix.com
1828年のパルファン・ドルセーの広告
両端の長いクラバットは1860年代には現在のネックウエアのようなものになり、ネクタイと呼ばれるようになった。
フォア・イン・ハンドという言い方は、4頭立ての馬車の御者が用いた結び方から来ている。
さて、イギリスを中心に大流行したフォア・イン・ハンド・タイだが、重大な欠点が存在した。
当時のネクタイはネックスカーフという呼び方があったことからも分かる通り、大きな布を折りたたんだだけのものが多かったのである。
これらのネクタイはとにかく結びづらく、また結んでもすぐに解けてしまうのだ。
ヴィクトリア朝時代にネクタイを留めるネクタイ・クリップやネクタイ・ピンが多く売り出されていたのもそのためである。
出典:activerain.com
1863年のMAISON DU PHENIXの広告
1860年代頃にはネクタイの種類として、結び下げネクタイ(フォア・イン・ハンド・タイ)、蝶ネクタイ、ストックタイがある。
クラブタイの起源は1863年、英国イートン・カレッジのランブラーズ・クリケット・クラブの生徒がユニフォームにレジメンタル・タイを結んだことに始まる。
英国には様々なクラブが存在しており、クラブごとにレジメンタル・タイが存在している。ストライプの幅や色の配色が厳格に定められており、その伝統は今でも英国の上流階級で生き続けている。
ゆえに、わたしはレジメンタル・タイを結ぶことに抵抗を感じる。
アスコットタイが流行したのは1870年代である。英国のロイヤル競馬場アスコットヒースに集まった紳士たちがグレイのモーニングコートとアスコットタイを好んで着用したのだ。それゆえ、今でもグレイのモーニングコートをアスコット・モーニングと呼ぶ。
出典:bbc.com
1870年代のアスコットヒースの様子
出典:metmuseum.org
1870年製の結婚式用蝶ネクタイ
1870年当時の蝶ネクタイが現在の結び下げネクタイと類似しているのは興味深い点である。また、当然のことながら1枚の布で製作されている。
現代の一般的に販売されている蝶ネクタイはあらかじめ結び目が作られているものが多く、たとえ手結び式の蝶ネクタイであっても結び目を作りやすいようにシェイプが入れられている。これらの蝶ネクタイを首が短くて身長の低い日本人が締めると容易にコスプレ衣装となり得る。
蝶ネクタイを結ぶときのコツは、あくまでも自分で結ぶこと。そして、自然でリラックスした雰囲気を崩さないことだ。蝶ネクタイを結んでいることを妙に意識してしまうと、周囲からは珍妙な大人に映ることを覚えておくべきだ。結び目の形が崩れているくらいが丁度いい。ディンプルとも皺ともとれる窪みがあると着こなしに余裕を感じさせる。
出典:www.nypl.org
エドワード・アンドリューとサム・バークレイ(1884年)
出典:mypoeticside.com
アルフレッド・ダグラスとフランシス・ダグラス(1890年頃)
ネクタイの歴史 20世紀初頭から1960年代まで
ヴィクトリア朝末期から主流になったラウンジスーツは現代のスーツの原型である。
そして、フロックコートやモーニングコートのような改まった服装から、文字通りラウンジでくつろぐための普段着へと紳士の装いは変化していった。
余談だが上下揃いの布で作られたラウンジスーツは、当時の感覚ではインフォーマルウェアであった。対照的にフォーマルな装いとは上下別々の布地を身に着けることを意味したのだ。紳士服の歴史を通じて上下が共布で作られたことはかつて一度もなかったわけだ。その意味ではジャケットとトラウザーのいわゆるジャケパンスタイルは歴史的に見ればフォーマルとみなせる。社会的に見ればカジュアルだが、この見方もいずれ変化するかもしれない。
わたしの予測では近い将来、モーニングコート等は廃れ、スーツがフォーマルウェアに格上げされ、ジャケパンスタイルが平装となる。すでに燕尾服が絶滅危惧種であり、夜の礼装はタキシードとみなされるようになってきている。それゆえ、モーニングコートも同じく絶滅するのではないかと思うのだ。
一方でクラシック回帰の流れが近年見られることからすると、ネクタイの位置づけも変化していくだろう。2000年代以降のカジュアル化の極限としてノーネクタイのスタイルが出現したが、その反動として蝶ネクタイやアスコットタイが再び隆盛するのではないだろうか。
話が横道にそれてしまった。ネクタイの歴史に戻ろう。
20世紀初頭はネックウェアの過渡期と言える。
クラバットやアスコット・タイ、ストック・タイ、フォア・イン・ハンド、ボウタイ。
様々な種類のものがあり、素材もシルク、コットン、リネン、ウールなどがあった。
しかし、一つ言えることは、ノーネクタイの装いはあり得なかったということだ。
そして、首元に立体感を持たせることが装いのポイントである。
いわばスカーフのような柔らかさと風を身にまとうのだ。
それは古代ローマ時代から変わらないスタイルであり、ネクタイの存在意義でもある。
布地を結んだ際の皺や、くぼみが造る表情は紳士服の堅さを和らげ、気持ちに余裕をもたらす。
20世紀初頭のネクタイがどのようなものであったのか、歴史写真や当時のイラストで見てみよう。
出典:www.nypl.org
1902年のネックウェアのイラスト
蝶ネクタイにはシェイプが存在せず、結び下げネクタイと似たものもあれば、現在のバット・ウィングのような蝶ネクタイなどがあり種類は様々であった。
当然、結び方も種類が豊富で紳士たちは蝶ネクタイの形状に合わせて結び方を変えて楽しんでいた。
出典:metmuseum.org
1910年頃の蝶ネクタイ
出典:yabushun.exblog.jp
1911年のブルックス・ブラザーズのカタログ
出典:vintagedancer.com
紳士用品店シンプソンズのネクタイ広告(1918年)
20世紀初頭のネクタイは今よりも短いものだった。
スーツは三つ揃いが基本でありネクタイの先端はベストの下に隠れるからだ。
また、1枚布のスカーフの流れを汲んでいたためでもある。
それ故に幅広であったり、形状も様々なバリエーションが存在していた。
1919年、のちに退位してウィンザー公と呼ばれる英国皇太子がアメリカを訪問した際に英国近衛兵第一連隊のレジメンタル・タイをしていたことでアメリカでレジメンタル・タイが大流行した。
そのネクタイをアメリカの仕立て屋で「このネクタイと同じものを」と注文した男がいたが、店主は鏡に映った男のネクタイを見てそのまま仕立ててしまった。それで、米国式のレジメンタルは左上がりとなってしまった。
という説があるが、たった一人の男のネクタイで米国流が生まれるとは思えず、この説の真偽は甚だ怪しい。
また、ブルックス・ブラザーズがわざと反転させて製作したという話もある。現在でもブルックス・ブラザーズは、左上がりのレジメンタル・レップタイを主要商品としている。しかし、わたしには、柄をわざわざ反転させた理由が見いだせない。
どちらにせよ、英国式は右上がりで米国式は左上がり、と世界的に認識されている。
それゆえに、ナポリの雨だれ袖ジャケットに左上がりのレジメンタル、靴は英国のフルブローグという出立では滑稽というものだ。君は歩く万国博覧会なのか。
日本には歴史を知らず恥を知らない「お洒落な男性」が多すぎる。
たびたび話がそれて申し訳ない。レジメンタル・タイの話に戻ろう。
製作者の立場からすれば、型紙を生地に載せるときに方向を変えるとストライプの向きも変わるので、単に生地の節約のために右上がりと左上がりが両方存在していたのではないかとさえ思う。
なぜなら上の1918年の広告イラストには英国式と米国式の両方のレジメンタルがあるからだ。米国式はリバースと呼ばれることもある。
英国のチャールズ皇太子は公の場でエンジと紺のレジメンタルを結ぶことがある。これはやはり、英国近衛歩兵第一連隊の連隊旗にちなんだ色柄を選んでのことである。
1920年代はネクタイの色と柄が最も豊富だった時代と言えるかもしれない。
現代的なネクタイの始まりとも言えるだろう。
かつては女性用とされていた柄を男性が身に着けるようにもなった。
例えばペイズリー柄がそうだ。
ペイズリー柄そのものは古典的で歴史は古い。
発祥はインド地方の手織りのカシミヤ・ショールに用いられた柄である。
王侯貴族のために何年もかけて手で織られたもので現代の通貨で数千万円したとされる。
このカシミヤ・ショールを一般市民のために機械織りで製作することに成功したのが、スコットランドのグラスゴーにある小さな町ペイズリーである。
このペイズリー柄のショールは瞬く間に流行し、1920年代には男性もペイズリー柄を身に着けるようになったのだ。
1920年代にはロンドンでクレリックシャツが流行したこともきっとご存じであろう。当時のシャツは襟が取り外し可能なデタッチャブル・カラーであった。労働者のシャツは白で、上流階級は色柄物のシャツを着た。染色したシャツは高価だからだ。そうした色柄物のシャツの襟を取り換えると、襟だけ白い色違いのシャツとなる。それで本場英国ではクレリックシャツのことをホワイトカラーシャツと呼ぶ。
クレリックは聖職者のことで、クレリックシャツは和製英語だ。
それはともかく、クレリックシャツにペイズリーのネクタイを合わせると非常に恰好が良い、と思うのはわたしだけであろうか。さらに言えば、元々ペイズリー柄がカシミヤ・ショール用に織られた柄であることを考えると、冬にクレリックシャツとペイズリー柄のネクタイ、グレナカードチェックの三つ揃いが良い。
歴史を知り、伝統を重んじ、スタイルに意味を付す。
それが粋というものだ。
この時代にも蝶ネクタイは変わらず人気があったがクラシックなアイテム、あるいはイブニング用という認識であった。とはいえ、ストライプ柄やチェック柄、ピンクのポルカ・ドットなども定番の柄とされており、伝統を守る紳士たちが蝶ネクタイを楽しんでいた。
ヨーロッパではクラブ・タイやレジメンタル・タイの流行が見られ、様々なパターンが生み出されていた。
アメリカではペイズリー柄を好む人が多くいた。
アメリカ人はなんだかんだ言って英国の流行を追うのが好きである。
出典:vintagedancer.com
1922年のアメリカのネクタイ広告
1920年代のネクタイで忘れてならない存在がニットタイだ。
ニットタイは決して新しいアイテムではなく、クラシックなネックウェアであることを知っておくと良いだろう。
ニット素材そのものの歴史は古いが、ニットをネクタイ用に使って生産ラインを確立したのはドイツのニットネクタイメーカーのアスコット社が最初である。1908年の創業であるから、ニットタイそのものはこれより以前から存在していたと考えられる。
1920年代に入ってからリゾート地でカラフルなニットタイを結ぶことが流行して、その後、普段使いのネクタイの仲間入りを果たすことになった。
ニット・タイは当初からややカジュアルなネクタイという位置づけであったので、スーツスタイルよりもジャケットスタイルとの相性が良い。
ニットタイは1960年代に再びアイビー・リーガーの間で流行することになり、アメリカン・トラッドという印象がやや強い。このアイビーを意識してニット・タイを結ぶのであれば、結び目は極力小さくしたいと思うだろう。しかし、普通のフォア・イン・ハンド(プレーン・ノット)では結び目が大きくなる場合がある。そんな時のためにわたしがおすすめするのはオリエンタル・ノットだ。
ニットタイは、日本において夏のネクタイという認識が多くみられるようだが、決して夏用のネクタイという位置づけではない。冬にコーデュロイのジャケットと合わせても一向に差し支えない。
そんな紳士と街中ですれ違ったとしたら、私は心のうちで密かに賞賛するだろう。
出典:vintagedancer.com
1920年代のヴィンテージニット・タイ
1926年、現代のネクタイにおける偉大な発明がなされた。
ニューヨークの仕立て屋ジェス・ラングスドルフが布地を3等分に折り、形が保たれやすいネクタイを作ったのだ。
しなやかで、なおかつ、形がしっかりしている現在のネクタイの誕生である。
彼は生地をバイアス(斜め45度)にとり、大剣、小剣、中継ぎという3つのパーツに分けて裁断、縫製した。
生地をバイアスに取ることで生地に縦と横方向に伸縮性が生まれた。これによりネクタイは結びやすくなり、さらに、3つのパーツに分けることで生地を無駄なく使えるようになった。
このバイアス製法は世界中に広まり、現在も変わらない画期的な発明といえる。
と、日本語の書籍やウェブサイトでは説明されているのだが、ラングスドルフの特許出願書には出願の日付として1922年4月17日とある。
出典:invention-protection.com
ラングスドルフの特許出願書の1ページ
バイアス裁ちという手法自体は服飾史において既に存在していた技法である。
しかし、これをネクタイに応用したところに意味があるのだ。
それ以前のネクタイは緩みやすい物であったことは、ヴィクトリア朝時代の特徴として挙げていたが、なぜ当時のネクタイは緩みやすかったのだろうか?
それはネクタイを結ぶ時に布地が引っ張られたり、逆に引き締められたりするからだ。
もし、縦に伸縮性のない生地で結び目を作るならば、時間の経過と共に結び目は緩んでしまうだろう。
時折、ネクタイが3つのパーツに分かれていることで結びやすくて緩みにくくなっている、という説明を見かけるが、それは正確ではない。パーツが分かれているのは生産上の都合によるものであり、1ピース(一枚布)のネクタイの方が結びやすい。
実のところ、蝶ネクタイはバイアスカットの恩恵に預からずに現代まで歩んできた。伝統的に蝶ネクタイを製作する時には布地をバイアスに裁たず布地に対して直角に裁つ。
ラングスドルフがネクタイのバイアス製法を世にもたらした時、すでに蝶ネクタイはクラシックなネックウェアとして結び下げネクタイとは別の道を歩んでいたからだ。しかし、直角裁ちされた蝶ネクタイは当然のことながら緩みやすく、ずれやすい。その理由もあってウィングカラーのシャツの後ろには蝶ネクタイを通すためのループが付いている。上にずり上がらないための工夫だ。
現代でも安価なネクタイは正バイアスで作られていない。その結果として緩みやすく、ねじれやすいネクタイとなってしまっている。
高級を謳うブランドのネクタイであっても大量生産されているので粗雑な代物が多くて緩みやすいのだが、それはまた別の話である。
また、バイアスの女王と呼ばれるマドレーヌ・ヴィオネについても紹介したいが、彼女はレディス・ドレスのデザイナーなのでネクタイ史を語るこの記事では省略しておこう。
さて、時代は移る。
1930年代のネクタイは、それ以前のネクタイにはなかった「派手さ」が加味される。
色柄も派手でネクタイの幅も広くなっていった。
また第一次世界大戦以降アール・デコ様式が流行した影響が続き、ネクタイの柄は幾何学的な線や模様のものが多く生産されるようになっていた。
こうした流行の背景にはもちろん染色技術の向上が関係している。
出典:vintagedancer.com
1930年代のネクタイの広告
出典:etsy.com/shop/StyleStash
1930年代のヴィンテージ・ネクタイ
上記画像のヴィンテージ・ネクタイは裏地も芯地もないシンプルで軽やかな仕上がりである。
1940年代は第二次世界大戦の影響でシルク生地のネクタイが減少し、レーヨン製のネクタイが広く市場に出回った。
ネクタイの柄は手描き風ペイントや極太のレジメンタルが多く、ネクタイの幅は10センチを超えるようになった。
出典:vintagedancer.com
1940年代のカラフルなネクタイ
カラフルな柄の流行は1950年代にも続いたがネクタイの幅は正常に戻った。
正常でなかったのは裏地である。
ネクタイの裏地に当時のセックス・シンボルであったマリリン・モンロー風の女性を描くことが流行したのだ。
当時の流行をモチーフにしたネクタイを今でも生産しているのはドルチェ&ガッバーナである。
出典:follyfatale.com
1950年代のヴィンテージ・ネクタイの裏地
1960年代に入るとネクタイの幅は正常な範囲を通り越していき、モッズ・ファッションの特徴でもある細身のスキニー・タイが流行する。
景気が悪くなるとネクタイの幅は狭くなり景気が良いと幅広になる、という説もあるが、あながち間違いではないだろう。
ネクタイの幅はスーツのラペル幅と連動する。
スーツが細身になればネクタイも細くなる。
景気が悪ければスーツもネクタイも少ない生地量で生産するため、細身にする必要がある、という訳だ。
わたしとしては、ネクタイの起源と歴史を扱った当記事をこのあたりで締めたいのだが、最後の画像がこれでは、なんとも低俗で下品な記事となってしまう。
困ったものだ。
ネクタイは自分が何者であるかを明らかにする。
女性に贈られたネクタイを首に巻けば、その女性に尽くことを誓約しているようなものだ。
ネクタイは自分が何に属しているかをも明らかにする。
レジメンタル・タイは連隊旗をモチーフにしたものであり、どの部隊に所属しているかを明示する。あるいは、所属大学、所属クラブの認証アイテムである。
表現したい自分の個性を示す場合もある。
現代においてはこの感覚がいちばんであろう。
アメリカ大統領選挙で、候補は時に赤いネクタイで情熱をアピールし、青いネクタイで誠実さを大衆に示そうとする。
きっと、あなたも勝負服ならぬ勝負ネクタイをお持ちであろう。
どんな柄や色を格好いいと思うかは人それぞれである。
これははっきり言って若い頃に流行っていた色柄が多分に影響する。
憧れのスポーツ選手、歌手、俳優が結んでいたもの、纏っていたものを、その後の人生でも格好いいと思うものだ。
正式な場ではクラシックな装いが求められるだろう。
クラシックな装いとは、ありていに言えば、「古い」装いである。
「伝統的」と言った方が聞こえが良いだろうか。
では、紳士服飾史において、いつの時代がクラシックなのか。
これには様々な見解があるが、ひとつの指標として「燕尾服とモーニングコートの時代」がある。つまり、ヴィクトリア朝時代である。
紳士服は古いものほど格が高い。
現代のスーツの原型はヴィクトリア朝時代の燕尾服やモーニングコートである。
これらの装いが正装とされているのは燕尾服もモーニングコートもクラシックだからである。
では、その時代のネクタイはどのような形態であったか。
この記事を読んでくださったあなたはすでにご存じであろう。
絶対的なシンプリシティこそが洗練性である。
胸元の立体感が男の装いに余裕をもたらす。
スカーフのような軽やかさが装いに色気を添える。
これはいつまでも変わらない紳士服の着こなしルールであろう。
ルールを熟知してあえてハズしていこう。
歴史を知ったうえで、自分流の意味あるスタイルを築いていこう。
ネクタイの歴史を語りながら幾度も脇道にそれてしまったが、そうした与太話もネクタイ選びの一助になればと願っている。
ネクタイ作りの正統な伝統を受け継ぐ蝶ネクタイを。
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